メディアは、一体感と空気をつくる
野村では「空気」が持つ5つの特徴、その事例として第二次世界大戦時のエピソードを紹介していただきました。ここで気になるのはやはり、「現在の日本社会における空気」についてです。
大澤たしかに第二次世界大戦は70年以上前のできごとですし、『「空気」の研究』は40年以上前に書かれた本です。しかし、空気は昔のものではない。日本人は今も変わらず、空気に縛られながら生きています。むしろ、2007年に「KY」という言葉が大流行したように、時代が下るにつれその傾向が強くなっている気すらします。
では、なぜますます空気が気になってきているか。そのひとつの原因に、テクノロジーの進化、とくにインターネットの普及が挙げられるでしょう。

野村インターネットによって「空気」にどのような変化が起こったのでしょうか?
大澤もともとマスメディアには、一体感をつくる力があります。遡ると19世紀、新聞の発明によって、「同じ場にいない人同士が同じものを読む」という画期的な体験が生まれました。距離が離れている人たちと、「一緒にいる感覚」を持てるようになったんですね。
野村「一緒にいる感覚」。前回お話ししていただいた、空気を作る際に必要な要素の一つですね。
大澤ええ。ただ、新聞やテレビといったオールドメディアは、地域や時間でセグメントされた特定の人にしか届きません。これは「一緒感」を作りやすいと言えます。
一方で、インターネットメディアは、世界中からアクセスできます。物理的に離れているし、不特定多数の人に届く。
にもかかわらず、インターネットはほかのメディアと比べて「一緒感」が段違いです。インターネット上のコミュニケーションは、目の前の人とおしゃべりをしている感覚に近いんですね。だから、空気が作りやすい。
テクノロジーとしては新しいけれど、社交の技術としてはきわめて古典的と言えるでしょう。
野村なるほど。同じ場に集まって空気を共有するのと、同じ構造なわけですね。
大澤また、インターネットは自分と似た人を見つけて空気の共同体を作るのに、とても向いています。オタク的世界で考えると分かりやすいのですが、リアルの世界では仲間がいないマイナーな趣味を持つ人も、インターネットで探すと結構見つかったりするでしょう。そうして同じ趣味を持つ人が集まる「共同体」でも、ある種の空気が醸成されていきます。

インターネットができたことによって、自分は空気の共同体に入っていないと感じていた人たちも、別のスケールで見ると「空気に入っている」と発見できる。
たとえば学校の空気にはなじめない子が、世界中のゲームオタクが集う空気にはすんなり入れることもあるでしょう。
野村たしかにインターネット、とくにSNSの登場によって同好の士を見つけるのはずいぶん楽になりました。さらにSNSの中でも、ツイッターはリツイート(拡散)によって、「いい」「悪い」の空気が拡散しやすいと言えるかもしれませんね。
大澤その空気を読まない人がバッシングされ、炎上してしまうケースはよく見受けられますね。ともあれ、空気を読みつつ空気を増幅させられる人にとって、いまのSNSの世界は適合性が高く、居心地がよいのではないでしょうか。
多様性に背を向けることは、負け戦に挑むこと
大澤さて、現代人が空気を気にする2つ目の理由。それは、「空気違反」が多くなっているからです。前編でもお話ししたとおり、空気が読めない人が場を乱したときに、空気に支配されていたことが露見する構造になっているからですね。
これまでは、社会全体で「空気を読め」という論理がうまく働いていました。だから、空気に支配されていることすら気づかなかった。いま、それがうまく機能せずに摩擦を感じる局面が増えているんですね。
だからこそ、私たちはいま改めて空気とはどういうものなのか考えておく必要がある。たとえば、私たちはもう日本人とだけ付き合うわけではないじゃないですか。
野村グローバル化に伴って、さまざまな国籍の方が増えていますからね。彼らに対して、日本人に求めるように「空気を読め」とは言えません。

大澤そのとおりです。僕らは子どもの頃から空気を読む訓練を積んできています。ノウハウとして「空気の読み方」を習うわけではないけれど、親から教えられることも、結局は「空気を読め」という話だったりするでしょう。だから、無意識に読めてしまう。
でも、まったく違う文化的背景のもと育った人と付き合うときに、空気を読むことを押し付けると当然摩擦が発生してしまいます。だって、彼らは訓練されていないんですから。
しかも摩擦が生じると、日本人は基本的に「KYの人が悪い」と判断します。この判断を続けていくと、無意識のうちにコンセンサスが取れている人としか付き合えなくなってくるんですね。
野村同質な人としかコミュニケーションを取らなくなる、と。
大澤しかし、それではグローバル社会で生きられません。資本主義社会において多様性に背を向けることは、負け戦を意味するのですから。
空気を読んでいたら、フォード車は誕生しなかった
大澤空気は、集合的な忖度環境の中で、集団によって作られます。つまり、個人にとっては空気は「与えられるもの」なんですよ。しかし、グローバル社会を勝ち抜くためには自ら空気を「作り出すこと」が求められています。
たとえばヘンリー・フォードは大衆車であるT型フォードを作り、それによってアメリカは車社会へと歩を進めました。フォードによって、ふつうの人が自動車を購入できるようになったのです。
馬車が主な交通手段だった当時、国民、もっと言えばマーケットの空気は「もっと速く走れる馬が欲しい」「あまり餌代のかからない、燃費の良い馬が欲しい」というものでした。
でも、ヘンリー・フォードはその空気を読まずに自分が作りたいものを作った。だからこそ、だれも想像していなかった画期的なT型フォードが誕生したんです。
つまり、ビジネスで成功したければ、空気を読む作戦は悪手なんですよ。「いまなにが求められているだろう」と考えるのは、まさに市場の空気を読む行為ですから。

野村フォードの事例は、改善かイノベーションかという議論でもありますよね。日本人は問題を改善するのが得意な一方、イノベーションを起こしてまったく新しいものを作るのは不得手だと言われています。
これは、空気を読んでいることに起因しているのでしょうか。
大澤まさしくそうです。市場の空気を読むと対応が後手に回るので、改善はできてもイノベーションは生まれにくい。イノベーションを起こすためには、空気を乗り越えて「KY的失敗」をしなきゃいけないんです。成功の影には、たくさんの失敗があるはずなんですから。
いまの日本は「タイタニックの40分間」
野村「空気を乗り越え、KY的失敗をする」とおっしゃいましたが、日本社会において強い空気の支配から自由になる、あるいはうまく付き合っていく方法はあるのでしょうか?
大澤それは本当に難しいところですね。日本社会で空気を読まないと、一番軽い罪でも村八分ですから(笑)。
野村まさに「抗空気罪」ですね。空気に抗うのは罪だと捉えられてしまう。
大澤しかし、先ほども申し上げたとおり、グローバルな世界で生きていくには空気の論理に頼っていては駄目なんですよね。まったく空気を共有していない人と、一緒に戦っていかなければならないんですから。そんな人たちとどうコミュニケーションを図るか、合意形成をしていくか、試行錯誤しなければなりません。
とくに、大きな仕事や良い仕事をするためには、その努力は不可欠です。ヘンリー・フォードも「速い馬車がほしい」という空気の中で、成功の見込みがあるか分からない車を作るうえで、周囲を説得しなければなりませんでした。フォードといえど、それは並大抵のことではなかったでしょう。
でも、あの手この手を講じるうちに、空気を乗り越える技術を自然と身につけていった。だからT型フォードを完成させることができたんです。
日本社会は「順調」とはとても言えない状況です。問題は山積で、解決策も見えていない。おそらくこのままだと、みんなで沈んでしまうでしょう。
少し大袈裟かもしれませんが、現状はタイタニック号が氷山にぶつかってから沈むまでの40分間、何も策を講じずにいる状態だと言えます。
野村タイタニックの40分。そう考えると、時間がありませんね。
大澤この状況を打破し、乗り越えるためには、社会の基本構造をがらりと変えるまったく新しい考え方が必要です。みなさんもその感覚は持っていると思いますし、実際、世間は「空気を外す人」を求めているとも感じませんか。
野村たしかに、過激で、常識外れとも思える発言が支持を集めたりもしています。どこか、空気を壊したい心理があるのかもしれませんね。
『「空気」の研究』は、空気の支配から抜け出さなければならない今こそまさに読むべき本だとあらためて感じました。いつか、「古びた本」になる日が来るといいのですが……。ありがとうございました。