前編は
マーケットインとプロダクトアウト
野村では「マーケティングとは何か」を整理していただきましたが、個人的にもうひとつ聞きたいことがあるんです。
井上なんでしょう?
野村マーケティング用語に、顧客のニーズや世の中の流れをとらえて商品を作る「マーケットイン」と、会社の方針や製作者の思いからものが作られる「プロダクトアウト」がありますよね。
これは編集者としてもしばしば考えるところで、この2つの関係性を井上さんはどのように考えているのか、ぜひお聞きしたいです。やはりマーケターはマーケットイン志向が強いイメージがあるのですが。
井上実はマーケットインとプロダクトアウトの区別について、私はさほど本質的な違いだと思っていません。
マーケットインでデータを調べるにも、仮説がなくてはいけません。この仮説を検証するのに、どのようなデータをどう比較するか、と進めていくのがマーケティング調査です。
プロダクトアウトのアイデアというのは、ある意味その仮説にあたるので、それをデータで検証すれば、マーケットインということにもなります。純粋なプロダクトアウトとの違いは、データで裏付けるかどうかだけではないでしょうか。
井上 大輔によるMOOC「すべての商売人のためのマーケティング講座」
野村なるほど。では、企画の最初の段階では「作りたいんだ」という思いと「求められそうだな」という感覚の、どちらをもっておくべきでしょうか。
井上それも、どちらでもいいと思っています。何れにせよ大切なのは、「仮説」を立てることです。なぜ、これを作ろうと思ったのか。これはマーケットにどう受け入れられるか。仮説がないとデータ実証もできませんから。
仮説の立て方には、バリエーションがたくさんあります。アイデアマンが直感的に「これが求められているはずだ」とひらめく場合もあれば、グループインタビューなどを行って再現性のある形で導き出す場合もある。技術者が「この技術を使ってみたいんだ」とこだわることも、開発者の原体験が元になることもあります。
マーケットインであろうとプロダクトアウトであろうと、仮説を立てるという「起点」が重要なのは変わらないと思うんですよね。
野村起業や新規事業においてもしばしば議論になる点ですが、井上さんに言わせれば大した問題ではないというわけですね。なるほど、すっきりしました(笑)。
マーケティング業界の潮流
野村MOOC講義でとくに興味深かったのが、マーケティング業界の最近の流れについてです。ここであらためてお話しいただけますか。
井上マーケティングがうまくいかない場合、その原因の多くは単純に知られていない、思い出してもらえないというシンプルな理由です。
マーケティングプロセスの最後にある「価値の伝達」は()、さらに5段階に分かれます。まずは「気づいてもらう」。そして「覚えてもらって」「好きになってもらい」、「深く知ってもらって」ようやく「選んでもらう」。
この中でも、最初の「気づいてもらう」「覚えてもらう」がとくに難しいと思います。ここを改めて重視する考え方があります。
私は以前ニュージーランド航空に勤めていて、ニュージーランドを観光地として売り込むためのマーケティングを行っていたので、この大変さが骨身にしみています。野村さん、ニュージーランドは知っていますね。
野村はい。南北2つの島があって、羊がたくさんいる国だとイメージがわきます。
井上ではニュージーランドに行きたいと思いますか。
野村行きたいか行きたくないかでいえば、もちろん行ってみたいです。
井上そうですよね。みなさんニュージーランドのことは知っていて、行きたくないと思う人はほとんどいません。しかし、いざ長期休暇が取れて旅行しようというときに、パッと思い出してもらえない。これが大きな問題なんです。

野村たしかに、海外旅行の候補として第1グループには入ってきませんね。ハワイやパリ、ローマなどをまず思い浮かべてしまう。
井上「ニュージーランドを知っていますか」と聞かれなくてもパッと思い出してもらうことをマーケティング用語で「純粋想起」といいますが、これができないと次に進めません。そして「覚えてもらう」ためには、脳の記憶構造を書き換える必要があります。
野村脳の上書き保存ですね。
井上はい。記憶を書き換えるには、3つの方法があります。1つは反復で、受験勉強で英単語を覚えるときに、単語帳を何度も繰り返すのと同じです。
2つ目は実際に使ってみること。覚えた英単語を使って話したり英作文を書いたりすると、単語帳で覚えるだけよりも習熟度が増しますね。
3つ目は「心を動かす」です。みんなの前で間違った英語を使って大恥をかいたりしたら、その単語は一発で覚えますよね。
野村そうですね、頭に刻み込まれて忘れませんよね。
井上こんなふうに感情の動きがあると、人間の記憶は書き換わりやすい。「反復する」「使ってもらう」「感情を動かす」、この3つが覚えてもらうための常套手段です。

とはいえ広告だと、反復が過剰になると逆にブランド毀損になりかねません。適度な繰り返しの中で、強く感情を動かすことが必要でしょう。
野村なるほど。NewsPicksアカデミアなら、広告を見る人のどんな感情が動けばいいんだろう……。
井上一説では、感情に上下があるほうが記憶に定着しやすいといわれています。ずっと笑い続けるよりは、平常な状態から「めちゃくちゃ面白い」あるいは「なんか腹立つ」というピークがあり、その後にまたパッと平常に戻るほうがいい。振れ幅の大きさが重要なんだそうです。
現状満足で前に進めない「コンプレイセンシー」
野村井上さんは最近よく「コンプレイセンシー」という言葉を使っています。あまり聞きなれない単語ですが。
井上コンプレイセンシー(complacency)は英語では一般的に使われますが、日本語にはこの概念がありません。辞書を引くと「自己満足」などと書いてありますが、ちょっと違います。
どういうことかというと、今契約しているサービスがあるとしますね。別のものに切り替えたほうが合理的だし経済的にも得だとわかっているのに、切り替えない。なぜかというと、今のサービスで「困っていない」から。
このように、現状に満足しているけれど、それがよくない満足である状態がコンプレイセンシーです。
野村携帯電話やネットの料金プランは、そういうことが多いですね。

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井上他には「組織をこう変革したらいい」とメンバーみんながわかっているけれど、別に困っているわけではないから、惰性で現状を肯定してしまう状態もそうです。
日本にコンプレイセンシーが蔓延している原因は、そもそもその概念がないから。認識が広がれば「あ、この状態ってコンプレイセンシーだよね。よくないね」と変革意識が生まれてきます。
野村認識の枠がなければ、その状態に陥っていることすら認識できないと。
井上はい。ですから私が「コンプレイセンシー」と横文字で言うのはかっこつけてるわけじゃなくて(笑)、日本語にない概念を皆さんに認識してもらうために、あえてそのまま使っているのです。
野村ではマーケターは、消費者のコンプレイセンシーに対してどのようにアプローチするんでしょうか。
井上これはすごく難しい問題です。マーケティングの中で、もっとも難しいといえるかもしれない。まず、商品を無料で配って使ってもらう手段は有効ですが、高額商品ではこの方法は取れません。
たとえば電気自動車。研究開発が進み、走行距離もメンテナンス面でもガソリン車とほとんど遜色がなくなってきました。こちらのほうが排気ガスも出ないし地球環境にやさしい。
それでも多くの人が電気自動車に乗り換えないのは、ガソリン車で困っていないからで、この状態を変えるのはすごく難しいわけです。変えられるとすれば、政府の規制くらいでしょう。

実際にアメリカなど諸外国では、電気自動車の割合を何年までにこれくらいにすると政府が決め、それが達成できないとこの州では自動車を売ってはいけないとまで規制しています。
これくらい強制力を働かせないと、消費者のコンプレイセンシーを打破するのは難しい。そこにマーケターができることがあるとすれば、規制を変えるためのロビーイングなどでしょうか。
野村たしかに簡単ではなさそうですね。しかし物もサービスも情報もあふれる時代だからこそ、コンプレイセンシーを打破する重要性がこれから増しそうです。
「運の可動域」を広げるキャリア論
野村最後に、井上さんがマーケティングで生きていくことになったきっかけというか、原体験があれば教えてください。
井上別に「マーケターになるぞ」と思っていたわけではありませんが、キャリアについて、私が信じている理論が一つあります。
スタンフォード大学のクランボルツ教授が提唱した「プランド・ハプンスタンス(planned happenstance)理論」で、日本語では「計画的偶発性理論」などと訳されます。
ビジネスの成功者にインタビューすると、ほとんどの人が「私が成功したのは偶然である」「私のキャリアは偶然によって形成された」と答えたらしいんですね。
私はそれに共感するので、キャリアについてはとくにプランを描かず偶発性に任せているんですが、「プランド(planned)」の部分では2つの考えをもっています。
一つは、10年後や15年後に「自分がこんな感じになっていたらわくわくするな」とゴールイメージをもつこと。
日々、私たちの目の前に配られる「カード」は偶然です。その数字や柄をコントロールすることはできませんが、ゴールイメージを頭に入れておけば、どうすればそれに近づけるかという視点で「ここでこのカードを切る」と決められます。

i-Stock/LuffyKun
もう一つは、「運」が遊び回るフィールドを広く保つための工夫です。
野村運が遊び回る、とても興味深い考え方ですね。
井上もちろん運は偶然のものですが、その可動域を広げることはできると思うんです。
野村具体的に、どんな工夫をしているんですか。
井上積極的に人に会いに行くとか、「この人はこれについて絶対に知らないだろうな」と思っても、決めつけずにとりあえず聞いてみるとか、そういう日々の行動ですね。
また、自分が心地いい・楽だと思う範囲に留まっていると運が遊び回るフィールドは狭いままですから、コンフォータブルゾーンから一歩出てみることも大切だと思います。
嫌なことを我慢してまでやるべきだとは思いませんが、居心地のいい空間からは絶対に飛び出すべきです。
そうすれば、運の可動域、運が遊びまわる運動場も増えて、キャリアが思わぬほうへ飛躍することもあるかもしれません。あくまで私の考えですが、皆さんの参考になれば幸いです。
*井上大輔氏がマーケティングを語った「NewsPicks MOOC」について、詳細はのページ をご覧ください。
